La Lecture 読書 |

先日、とある専門誌の「外国語を学ぶ」という特集のうち、「フランス語を学ぶにはどうしたらよいか?」というテーマのもと、実に4時間半に及ぶ鼎談(?)に出席させて頂きました。まぁ~よく話したつもりではありましたが、誌面ではほんの一部、いえ、極一部分のみの掲載となりました・・・至極当然なのですが。
その「フランス語を学ぶ」というテーマ周辺のことを今回は綴ってみたいと思います。言語だけでなく、料理そのものや考え方、実践方法等々。
一つ目はフランス語。
単刀直入に、「フランス料理をやるうえで、フランス語は絶対に必要か?」と問われれば、「絶対必要」とは断言出来ません。その理由は・・・お店で私に直接きいてください。さすがにここでは書けません。でも、ハッキリとこう断言できます「フランス語を全く出来なくても今の時代は問題ない」と。と言うか、外国語を出来なくても、大きなハンデにはならないのです。国内のドメスティックな市場の範疇に留まるのならば。9割以上のフランス料理店がその範疇に含まれます、おそらく。弊店も含め。私がここでエラソーに言わずとも明明白白な事実です。
では何故自分は大学に通ってまでしてフランス語を勉強したのか?今現在はどうなのか?英語もやっているのか?との問いかけには(実際には度々聞かれます)、「フランス語の勉強は今ももちろん続けています。英語はほんのちょっとだけ」と応えます。さっきは特には必要ないと言ったのに、舌の根も乾かぬうちに真反対の言辞を弄するのか! いえ、そういうわけではありません。コトバの厳密性に注目して下さい。
「必要ではない」けれども、「やれば大きな収穫を得られる可能性は存分にある」ということです。実際、お店にお客が入らないことにはハナシにならないわけですし、料理人もサービスマンも学者ではありませんから、利益を生み出す装置としてお店が機能する必要があります。そこにはフランス語やらナンチャラに関する知識と言うものは、全く無関係なのです。商売上はこれっぽっちも役には立ちません。
では収穫とはなんでしょうか?得られるものは「知識」です。それ以上でもそれ以下でもなく、「知識」のみです。知識の獲得には相応のお金と時間がかかります。勉強は自分の時間とお金をかけてするものです。
そして知識はそれ単独では、そこからは一切何も生まれません。何かしらの結果を残して初めてその存在自体に意義を纏うことが出来ます。お金だったり、人とのコネクションだったり、何かを生み出すためのツールとして、「知識」というものを活用するわけです。でなければ「知っているだけ」で終わりです。
結論から言うと、私はフランス語を媒介として、少しのお金を得ることもできました。人との新しい繋がりも生まれました。手前味噌でおこがましい物言いかも知れませんが、少し人とは違った視点でフランス料理を見ることが出来ているのかもしれません。それが良いか悪いかは判りませんが。それも収穫です。
先ずは「フランス語を学ぶ」ということの触り。えっ?長くねぇ?? いやいや、まだまだ触りです。
写真は今シーズン大変ご好評頂いた鮎の一皿。
お腹から開いて炭焼きにし、内臓を全て混ぜ込んだ赤ワインのシヴェ風ソース。ブリックのサクサクしたミルフィーユ状のガレットの間には、甘味の強い黒いちじくと、鮎を丸のままコンフィにしたもののピュレ。
苦味、甘味、少し強めの塩味。紫蘇の香りとトリュフの土っぽいアクセント。
事情により10月頭までひっぱることになりましたので、是非是非!!川魚のシヴェですから、紛うことなき立派なフランス料理です。
《 Le tout sans nouveauté qu'un espace de la lecture 》
すべて読書空間以外に新しいものなど何も無い